野生のイルカと泳ぐ ドルフィンスイム等、世界の絶景ジープ島(JEEP島)の話題が満載。

ジープ島、Jeep島

ジープ島、Jeep島、第26話~第30話
HOMEの中の冒険ひろ吉の部屋の中のVol.6 第26話~第30話

ジープ島、Jeep島、冒険ひろ吉の南方楽園記:『裸足のままで』

ジープ島、Jeep島、第26話 新たな挑戦!新天地を求めて・・・ (2007年6月)

6月3日晴天のべた凪ぎ!遂に宮地撮影隊は幻の環礁キミシマ環礁の南の突端のイピス島を目指した。イピス島の左側に2つのチャネル(水路)があるからである。
10年ほど前に現地人のコケとフォノフーク島の外洋側の調査ダイブを行った際、その先にあるチャネルでシュノーケリングを行った覚えがあった。そのときの感動が忘れられず、長年の私自身の夢でもあった。トラック環礁内では島民達が魚を取るエリアが決まっており、人の漁域を犯すことは出来ないことになっている。しかし今年に入って状況は一転した!キミシマ環礁南側半分のオーナーの名はモーゼスという人で、その人から入ることの許可が下りたわけである。

その日はたいへん気合が入り、頭に白いタオルを巻いて・・・まるでエジプトの王ファラオに謁見を求めるモーゼのような心境でキミシマ環礁に向かった。トラック環礁の南のパス付近ではイルカが出て、まるで我々を歓迎してくれるかのようであった。南のパスを抜け一旦外洋に出て最初の大きな島のフェネッピを左にしながらわき目もくれずに一気にフォノヌーク島を目指した。フォノヌークを越えれば今まで行ったことのない前人未踏ではなく、ダイバー未踏の地に踏み入れることになるわけである。やがて真っ青なブルーのコントラストがたいへん美しいフォノヌーク島の脇を通りながら、更に先に進んだ。

しかしフォノヌーク島から約5・6分走らせたところでハプニングが起った!持ってきたガソリンの半分を使い果たしてしまった。ちょうど環礁側の浅瀬に小さな岩が突出しているのが見えたので、そこにアンカーを打って止めるように支持した。
ガソリンがない以上、進むわけには行かないので我々はそこで断念して遠くに見えるイピス島の撮影を行い、船の上で昼食を取ることにした。

そして昼食の前に少しシュノーケリングをしようと言うことになり、皆で真っ白な浅瀬の砂地に飛び込んだ!ここで我々はたいへんな感動と驚きを覚えた。そこは環礁の浅瀬から真っ白な砂地が広がり、その先は真っ青な見事なブルーに変わっていて、浅瀬の砂地には至る所に生き生きとしたサンゴの根が転々として、いままで見たことのない「水の楽園」そのものの光景であった。
思わぬハプニングが思わぬ結果を呼んで・・・決して無駄ではなかった!来た甲斐があったということで帰りにアンティアスロックを潜ってジープに戻った。

そして2日後の6月5日我々はボートに40ガロン以上のガソリンを積み込み、更なる挑戦を行った。今度はいきなりフォノヌークには向かわずに反対側の大物ポイントの「ブルーチャネル」を先に押さえて、ブルーチャネル側からキミシマ環礁の最南端にあるイピス島を目指そうということになった。ブルーチャネルでバラクーダやギンガメやヒメカマスの見事な群れの撮影を終え、そのまままっすぐイピス島に向かった。そしてボートを走らせて約25分ほどでイピス島の前に辿り着いた。島の写真をしっかりおさえ、その後環礁に沿って左側を走らせチャネルを探した。しばらくすると一つ目のチャネルが見つかった。しかしチャネルはかなりの大きさで若干のうねりがあったのでチャネルのインリーフ側を先にシュノーケリングで調べた。

そこは砂地に大きな根がいくつもあり、たいへん魚影の濃いポイントでハナゴイなどがたくさん群れている美しいところであった。シュノーケリングポイントとしては最適な場所であった。ちょうどそのチャネルに沿って小さな島があり、真ん中にこんもりとした木々が生い茂って、島の回りは岩で覆われていて中は真っ白な砂地であった。右側と左側に2箇所海まで砂地が出ていて、ちょうど入り口と出口のような感じで、まるで家を思わせるような変わった地形をしていた。昔浦島太郎が住んでいたような・・・そんな錯覚を覚えた!

その後最初のチャネルが大き過ぎるということで更に左側にある小さな島を目指した。5分ほど走らせて島に辿り着いたが、どこを見てもチャネルらしきものはなかった。その小さな島は前の島よりも更に周りが岩で覆われていた。
そこでチャネルはどうやら一つしかないようだ!という結論になり、もう一度イピス島近くの浦島太郎の家らしき島の脇のチャネルに戻った。チャネルの外洋側にボートを止めて見ると、流れはほとんどなくうねりもなくなっていたので、我々は外洋側からタンクを背負って入ることにした。

エントリーした瞬間我々は水中で歓声をあげた!それは入った真下が抜群の透明度で見事な大きさのテーブルサンゴが所狭しと点在していたからである。そしてその感動の中を見事な大きさのエイが我々の真下を通り過ぎていった。チャネル沿いにインリーフに向かって進むとウメイロモドキの大群やアジの群れなどが数多くいた。そして浦島太郎の家らしき島のハウスリーフに辿り着いた。我々はとうとうやり遂げたという達成感の中、満面に笑みを讃えて浮上することができた。
帰りはキミシマ環礁のインリーフではなく、その名も無きチャネルから一気に外洋を飛ばしてトラック環礁南東のビッグアイランドの脇から環礁内に入りジープに戻った。これは最短距離である。

今回の一つの結論として・・・快晴のべた凪ぎの日であればキミシマ環礁のブルーチャネルを一本終えて、昼食がてら新たな美しいシュノーケリングポイントで休んで、浦島太郎の家らしき島のチャネルに挑むのがいのではないか?と思っています。もしかしたら乙姫様に出会えるかもよ???
そしてその翌日も我々はキミシマ環礁のブルーチャネルに向かった!実に見事なダイビングであった。

  今年50歳を過ぎても未だ冒険をしている・・・冒険ひろ吉より

ジープ島、Jeep島、第27話 キミシマ環礁の調査結果! (2007年7月)

キミシマ環礁というのは一体どうゆう形の環礁なんだ?とお思いの方々も多いと思います。ご自宅にトラック環礁の地図がある方はそれを広げていただけるとわかるんですが・・・ない方もいるかも知れませんので、少しご説明させていただきます。
簡単に言うと「卵型」なんですね。トラック環礁の真南のOTTA(オッチャ)というパスから外洋に出て、ボートで約15分の距離にキミシマ環礁入り口のフェネッピ島が見えます。つまり縦にした卵の下の先端がその島にあたります。このフェネッピ島の前のドロップがブルーウォール。そしそのすぐ島の脇にチャネルがあり、チャネルの右突端がダイビングポイントアンティアスロック、そのままリーフの外洋側に進むと小さな岩がポツンと出ている所がジュエリードロップということになります。
その先をどんどん進んで行くと、あの幻のエッジ「エッジ オブ クオープ」というポイントになるわけです。クオープというのは「KOUP ATOLL」といい、キミシマ環礁の現地名です。キミシマというのはどうみても日本語だからね?現地人はクオープ アトールと言っているわけです。

ここまでが卵型つまり縦長の環礁の一番手前のリーフということになります。これから縦長の環礁の右側を南下すると二つ目のチャネルがあります。ここも以前2回ほど潜っていて、そこそこ面白いんだけどちょっとチャネルの大きさが広すぎて大物のいるところが絞り込めないんですね。

そしてその先を更に進むとブルーチャネルがあります。ここは今回宮ちゃん達と2日連続で入ったけれど、大物ダイブとしては申し分ないところですね。入ってすぐに外洋側から大きなバラクーダの群れがいつの間にか忍び寄ってきて囲まれていたり、それとほぼ同時に60m下の棚底からギンガメの大群がダイバーめがけて突進してきて、更に同じ場所でヒメカマスのたいへん美しい群れが悠々として固まりながらいて・・・その中に時には13匹のマダラトビエイが突っ込んで来たり・・・これはカメラマンにとっては忙しい限りで水中100m走と言った感じになっちゃうわけです。
そういえば一人そうゆうカメラマンがいたな?ブルーチャネルの棚の上で走り回って、私が水中で「おーい!次はあっちだ!!」と叫んでいる最中にエアー切れになってあがって行ったのが・・・船の上に上がってみると舳先でひっくり返った亀のようになっていたのが・・・まー!誰とは言わないけどね。

まー!それくらいこのチャネルは凄いということになるわけですね。とにかく魚がだれていないんだね。寄り方が実に理想的というか?魚が妙にビキニっぽいというか?人懐っこいと言う事なんですね?

そしてブルーチャネルを更に進むとキミシマ環礁真南の突端「イピス島」があり、その左側に新たなポイント「名無しポイント」があるわけです。そしてその隣が例の浦島太郎の家らしき島(宮ちゃんの写真)があります。
このチャネルは非常にサラットパスに似ています。いつもサラットパスで潜るときにはジープから20分で行って、一旦チャネルから外洋の左側に出てからエントリーしてチャネルに向かうというコースを取ります。そのチャネルに入った真ん中辺りの右側にすぐ島があると言った感じなんですね。もしその島から入れたらインリーフとアウトリーフをほぼ同時に入ることができるということになります。これは一つの今後の課題と言えるでしょうね?

その「名も無きチャネルポイント」から5分くらい進むと岩で覆われた小さな島があり、そこから約15分ほどの所に今回初めて発見した幻のシュノーケリングポイント・・・またはカメラ派が泣いて喜びそうなポイントということになります。まー!私も今まで世界中の海を見てきているけど、ここの美しさは絶品ですね。
ダイバーやシュノーケラーならここを見ないでは死ねない?ここを知らずして海の青を語るなかれ?と言った感じだろうね???宮ちゃん!しっかり撮れているだろうね????

そしてそこから5分のところに皆さんがいつも上陸しているフォノヌーク島があり、その先を20分進めば最初のキミシマ環礁の入り口の島フェネッピ島に戻るわけです。つまりキミシマ環礁の島の数は大きな島がフェネッピ島とイピス島・中型がフォノヌーク島・小さいのが周りが岩の島と浦島太郎島(仮称)の計5つになるわけです。
そしてイピス島を「名も無きチャネル」から出てどんどん南下すれば赤道があり、その先にパプアニューギニアがあるということになります。

ここしばらく冒険という言葉から遠のいていて、どうもやることがマンネリ化していたんだけど・・・やはり男は冒険しないとね?船の舳先に立って「右だ!左だ!」と叫んでいるのがいいんだな?そんなときにはいつも新たな発見と驚きがあるわけなんでね。

  男は強く逞しく・・・決して多くを語らず頑固でなければイカン!
何なんでしょう?これは・・・

話は変わるけど・・・アラスカ辺りへキングサーモンを狙って釣りに行っているアメリカ人の老人がいるんだけど、15年間通い続けて一匹も釣れたことがなくて、それでも毎年行き続けている男がいるらしい?
一体そこまで男を駆り立てるものとは・・・やはり夢なんだな?きっと

ジープ島、Jeep島、第28話 「ビキニとイテヨシ」 (2008年7月)

ジープ島の犬のビキニの人気は相変わらずで、昨年11月に子供を4匹産んだにも関わらず今だ子供とも大人ともつかない体付きで毎日皆と遊んでいる。幼児体系なんだね?あれは・・・昨年の出産の時は小さな方のコテージが開いていたらしく、その中に入ってちゃっかり産んでしまった!一体ゲスト小屋なのか犬小屋なのか全く区別がつかなくなってしまう?今でも夜ドアが空いていると、ゲスト達が飲んでいる隙に部屋に入って、布団の真ん中に横になって人間のように寝ている。
先日、本犬を呼んで「いいか!お前は犬なんだ!!縁の下で寝なさい!」と注意したんだが、ビキニは私の顔をじっと見ているだけで、ウン!ともスン!ともワン!とも言わず、何処かに行ってしまった。
このビキニ人気というのは益々上がる一方で、最近ではメールで「ビキニの子供が生まれたら、是非ジープに行きたい!」という問い合わせが何件も届いている。ちなみに私の人気は下がる一方のような気もする?

そして今ジープ島では、このビキニ人気を超える勢いの新たな現地人のスタッフが加わった。年齢は未だ19歳で、名前はBOSTEN ITEYOSHI(ボステン・イテヨシ)である。ジープ島のコテージを建てた大工イーテン・イテヨシの息子である。親父が大工で器用なせいか、息子もやることがマメで中々気が利いている。サンゴでジープの看板を作ったり、シャワールームの所に棚を作ってみたり、頻繁にゲスト達に椰子の実を割って持って来たり・・・彼の特徴はというと、いつも首からゲストから貰ったと思われる日本の50円玉をぶら下げている。とにかくそのマメさ故にゲスト達からの評判がたいへん良い!犬のビキニのように皆にかわいがられている。
まー!ジープ島も今年の9月で12年目を迎え、新之助も私も年老いてきて、そろそろ人生の黄昏時に入ったので、トラック環礁の神様が救世主でも送り込んだのかもしれない?確か新約聖書に出てくるイエスも大工の息子だったからねぇー。

このボステン・イテヨシのラストネームをよくよく見て頂くと日本名だということがわかる。この「イテヨシ」と書かれてある語源は、実は「秀吉」から来ているらしい!当然、日本では「秀吉」はファーストネームになるのだが・・・ご当地ではラストネームもファーストネームも全くお構い無しにひっくり返ってしまう傾向があるように思う。現に私の名前の「YOSHIDA」も誰もが最近までファーストネームだと思っていたらしい!つらつら考えるにブルーラグーンのスタッフの名前だけでも妙なのがいくつかある。
変わった名前では、キムチ・サントリー・ブルースリー・イッテン(一点)などなど・・・凄いのになると、年の頃は80歳代なのに名前は「赤ちゃん」とか「オバケ」なんて言うのもある。そのうち「キッコーマン」とか「ヤマサ」なんてのが現れるんじゃないか?とふと考えたくなる。まー!名前を付けるにあたり、あまり深くは考えないんだね?この土地では・・・

このボステン・イテヨシに、今ジープ島のサンゴが西側から南側に広範囲で張り出してきている!その美しいサンゴを是非ゲスト達に見せてあげたいので、西側にシュノーケリングでもダイビングでも入れるように一つ小さなチャネルを作るように支持したところ・・・な!なんと3日間でチャネルを作ってしまった!私の予想ではのんびりしている現地人の事だから、2−3週間はかかるだろうと踏んでいたのだが?
朝ボートでジープに到着するとビーチまでビキニとイテヨシが出ていて「YOSHIDA!新しいチャネルから出入りできるぞ!!」と叫んでいた。

その日は快晴のベタ凪ぎだったが、キミシマにもサンドパラダイスにも何処にも行かず、マスクとフィンを付けて今だ踏み入れてない未踏のチャネルからゆっくり入ってみた!海面に顔をつけて数十秒後には、目の前に新しい見事なテーブルサンゴとミドリイシのサンゴの群落がミクロネシア特有の地形で広がっていた。そして何よりも驚かされたのは、魚の多さであった。200匹を超えるブダイの群れと100匹以上のシマハギの群れが一緒になってサンゴや藻をつつきながら泳いでいた。そしてその近くにはカマスの子供が100匹くらい、右に左にサーッ!と行ったり来たりしていた。しかしそれよりも更に驚かされたのは、色が黄色のペンシルストリークトラビットフィッシュが150匹ほど群れていたことであった。

確かにブダイも緑色や青色のものもいたりして目立つんだけれども、群れている時は、多くが黒っぽかったり茶だったりして全体的な派手さはあまりない!またそのブダイと一緒に行動しているシマハギも白地に黒のストライプだから、それほど目立たない!しかしこのペンシルストリークトラビットフィッシュは実にカラフルで、その150匹以上の群れというのは実に圧巻である。青や紫やピンクのサンゴが密集している上を泳いでいる群れの姿は、体の黄色が実に映えて色彩のコントラストが美しい!見事の一語に尽きる!!

12年以上に渡ってジープ島を見続けてきたわけだが、これは初めてのことであった。それだけハウスリーフが豊かになっているのだと思う!毎日、やれキミシマだ!サンドパラダイスだ!富士川丸だ!と飛んで歩いていたわけだが、実は毎日いるジープ島のハウスリーフがこんなにも豊かになっている事に全く気づいていなかった。新たな発見と驚きの中、イテヨシが作ってくれたチャネルから戻ってビーチにたたずみながら、つくづく「灯台下(もと)暗しとはこのことだ!」とふとそんな言葉が飛んで出た。
中々奥が深いですぞ!ジープのハウスは・・・

追伸:今イルカは2ヶ月に渡って90%くらいの確率で当たっています。そのおかげでかなり泳いでいます。どのくらい泳いだかって?もう日本一周くらいしたんじゃないの??それにしては何故私の腹は凹まないんでしょうか?ジープ島七不思議の一つだな??何なんでしょう???これは・・・ 。

ジープ島、Jeep島、第29話 「トラックの正月」 (2009年1月)

新年明けましておめでとうございます。
このトラック諸島での正月というのは未だにピン!と来ない。日本では年の瀬が近づいてくれば「よいお年を・・・」などと言葉を交し合ったり、またTVなどが「紅白歌合戦」などの年末年始の番組を満載させ、いろいろと演出してくれるのでいよいよ年が明けるんだな?という気にさせられるんだが・・・しかし、この南の島ではTVもなければラジオもない、また新聞などもないわけで・・・どうも昨年と今年とのけじめがつきにくいように感ずる。
唯一つだけ、この土地の新年を迎える習慣として「缶たたき」というのがある。12月31日の深夜12時を過ぎて元旦になると、子供も大人も缶を棒でたたきながらあちこち歩き回るのである。

私は12月31日にジープに出かけ皆でドルフィンスイムを行い 、2008年最後の日をイルカで終わらせることが出来たことを祝って、夜の8時からビールに始まり、バランタインの17年を一本。その後赤ワインと1月1日の夜中の3時まで飲み続け、歌い踊った。そしてそのままヨレヨレになってセキュリティーに部屋に担ぎ込まれた。すぐにベッドに潜りこみ気持ちよくすやすやと寝ている所に、明け方5時ごろ例の「カン!カン!」が私の部屋までやって来た。声は出さずに唯ひたすら叩くのである。
何処からともやって来て10回くらい私の部屋の前で叩いて、また何処かに去っていった。大人なのか子供なのか?或いは男なのか女なのか?全く検討がつかない。私は半睡状態でウトウトしながら「一体この行事は何を意味しているんだろうか?」ふとそんなことを考えながら再び寝た。

この「缶たたき」はかなり昔から行われていたらしい。昔は島に缶がなかったからコプラ(タカ)という椰子の実の枯れて硬くなったものを使ってたようである。丁度砲丸投げの玉のサイズくらいの椰子で、それを2個持ちながらカン!カン!叩いて歩き回ったようである。この「缶たたき」はトラック語で、APUP TIN(オプッティン)と言い、APUPは「叩く」の意味でTINが「缶」という意味だそうである。昔缶がない頃は、椰子の硬いのをタカ(TAKA)というので、APUP TAKA(オプッタカ)ということになるのだろうか。
私なりに考えると、この「缶たたき」には2つくらいの意味がありそうだと推察できる。一つはまた一年を無事に過ごして来られた安堵感と新たな年を迎えて希望を感じている期待感とが入り混じって「おめでたい!」ということでドンチャン!缶を叩きながら「共に祝おう!」というような意味合いであると思われる。

あともう一つは「悪魔除けの」のまじないのような気がする。この土地には古くから悪霊信仰のようなものがある。例えば、未開の島に初めて移り住む場合は、島の片側の海岸線だけに家を集中させるようになっている。つまり島の反対側は悪霊たちに明け渡す!というような意味らしい。また私がジープ島に住み始めた頃、よくキミシマ環礁の調査に出かけたものだが・・・必ず出かける2日ほど前になると新之助が手招きして、私の耳元でそっと小声で「キミシマに行く前の夜は絶対に女とベットを共にしていけないよ!キミシマのオバケが嫉妬して、帰ってきてから何日も熱に魘されるからね!」と念を押されたものである。

まー!この土地はたいへんな子沢山である。こんなのんびりした土地でもまともな病院などがないから、子供が病気で死んでしまったり母親が出産時に死んでしまったり、やることがないと言って酒を飲んで大声出して、そのまま海に飛び込んで死んでしまったり、母系社会なので、母親が強く・・・その母親に睨まれた若者が首を吊って死んでしまったり、のんびりとした南方でも様々な不幸があるわけである。
そうゆう不幸をぬぐい去りたいという思いで、椰子の木立や家の周りのジャングルなどに潜んでると思われる悪霊を取り払うため、缶を思いっきり叩きながら歩き回るのではないか?そんな気がしてくる。

そんなことを考えつつ元旦の朝、二日酔いにもならずにジープに出かけて行って、恒例の「島一周シュノーケリング」を行い、既に「年越しちゃった天ぷらそば」を食べ、ジープでも缶たたきを行わねばと思いつつ、りぺルに缶は?と尋ねたら「ない!」と言われてしまったので、しょうがないからボートに乗り込んで「缶たたき」ならぬ「タンクたたき」をやりながら本島に向かった!

ちょうど夏島を過ぎた辺りで東の空を見ると、白い大きな入道雲に二重の虹がかかっていた。「よっ!待ってました!!こいつぁー春から縁起がいいわぃ!!!」と一人呟きながらホテルに戻った。
翌日風が止み海が凪ぎになり、我々はキミシマ環礁に向かうことができた。そのまま凪ぎが4日間今日まで続いている。

私は密かに「タンクたたき」のご利益があったのでは???と思っている。しかし・・・缶(勘)違い!かも

  「虹は立ち、茶柱も時には立つが・・・
未だ私はウンともスンとも・・・!」字余り

なんでしょうか?これは・・・俳句でも川柳でもない!唯の告白だね?

ジープ島、Jeep島、第30話 「青いイルカ」 (2009年5月)

ここトラック環礁では、イルカというとミナミバンドウイルカとハシナガイルカの2種に分かれ体の色はグレー(灰色)である。しかし以前何処かに白いイルカがいると聞いたこともあるし、また南米のアマゾン川辺りにはピンクの川イルカがいると何かの本で読んだこともある。
通常イルカを描こうとすると、やはりグレーというのが多い気がするが・・・どうゆうわけか?私が見たギリシャでのイルカの壁画・本・壺・タイルなどに描かれていたイルカはほとんど青であった。
何故青で描くのか?その辺は全く定かではないが・・・まぁー!ギリシャ神話に出てくる海の神ポセイドンは、いつも数十頭のイルカを従えていたという話からすると、紺青のエーゲ海の海の青さとその象徴であるイルカとを重ねて、イルカを青く描きたくなったのではないか?ふとそんな気がしてくる。

1996年の夏、私はギリシャのミコノス島に滞在していた。ミコノスタウンのはずれにあるこじんまりとしたホテルの開き窓からは青く美しいエーゲ海が見渡せ、毎日数匹の太った猫が陽だまりの中でウトウトと寝ていた。
3日間ほどオルノスビーチという所からダイビングに出かけ、後はエーゲ海クルーズで遺跡を見にデロス島へ渡ったり、バスに揺られながらパラダイスビーチに出かけ、夜は海辺のレストランでスミレ色に染まりゆくエーゲ海を見ながら酒を飲み食事をしていた。
ギリシャのミコノス島はエーゲ海に浮かぶ白い宝石と言われ、白い教会と建物が至る所に点在し、真っ青なエーゲ海との白と青のコントラストを浮き彫りにしている美しい島である。

町を歩いているとギリシャ正教あたりの厳格な顔つきの神父さんとすれ違ったり、黒い服を着たお婆さんが家の前で編み物をしていたり、ギリシャ帽をかぶった漁師達が港で一杯やっていたりするのが伺える。また港のカフェでは目の前にペリカンや花売りのロバがいたり、海を見渡せば青く澄み切った水の中に魚がゆらゆら揺れているのが見え、ギリシャ特有のたたずまいを見せていた。

私はミコノス最後の夜、バーで一杯ひっかけてほろ酔い気分で買い物に出かけた。
港でギリシャ製の安いカーディガンを買い、別の店でベストを買い、ミコノスタウンの町の中をのんびりと徘徊していた。しばらくして小さな路地から大きめな道に抜けると、その角に一軒の古めかしいお土産屋を見つけた。
一度その前を通り過ぎたが、ショーウィンドウの中の小さな置物が目に留まり、もう一度引き返してじっと眺めていた。それはたいへん小さなイルカの置物であった。まるでギリシャの海を思わせるような美しい青い石で作られていて、そしてその紺青の青の中に白濁色の小さな斑点がうっすらと散りばめられていた。
私が見惚れていると、店の中からお婆さんが出てきて「何かお探しですか?」と尋ねたので、私は思わず値段も聞かずに「これをください!」と言って買ってしまった。

それからアテネに戻りパルテノン神殿に出かけ、翌日はパリに向かった。パリではそのお気に入りのイルカをGパンのポケットに仕舞い込んでは、カフェやレストランに出かけ椅子に座る度にテーブルの上においてじっと眺めていた。
そして外の夏の陽が燦燦と降り注ぐ午後のカフェで、一度テーブルの上に置いた時、私はある一つの事に気づかされた。それは陽の当たり方によってイルカの青さが微妙に変わるように思え、まるで生きているかのような不思議な感覚を覚えた。

それから1年後の1997年の夏、私は無人島に住む事を決め東京吉祥寺の井の頭公園近くのマンションで荷物の整理をしていた。そして最後に服の入った小さなリュックとイルカの置物だけが私の手元に残った。ところが出発間際になってイルカの置物は島に持ち込まない方がいいような気がし始めて、結局イルカ好きな小学2年生の女の子にあげてしまった。

そしてその年の9月に島に入り住み始めた。その年の終わり頃には私は現地の風土病のようなものにかかり熱にうなされ続け、体力が減退して10キロ痩せてしまった。そして1998年の11月までに私は2度の嵐を経験した。そして更に体力と気力が落ち始め、私の心は大海に浮かぶ一枚の枯葉の如く大揺れに揺れていた。そしてその最もつらい時に、私は一頭のイルカに出会った!

水深20mの沈船のデッキにいた私の背後からそっと現れて私を伺っていた。手を差し出すと首を振りながら喜んで何度も何度も私の周りを泳ぎ回った。
しばらくして青い海に消えたかと思うと1頭、2頭と仲間を連れては現れた。その後私は12頭のイルカ達と思う存分遊ぶことが出来た。最初の1頭は常に私の傍から離れなかった。そして、そのイルカは傷ついた私の心を大いに癒してくれた。それから更に11年の歳月が流れたが、未だそのイルカとは会い続けている。名前はアルパという。

そして2009年2月日本からあるメールが届いた!それは12年前にミコノスのイルカの置物をあげた女の子の父親からであった。「今年家族みんなで島に遊びに行きたいので、帰国の際には是非会いたい!」という文面であった。そして6月にその親子に会うことにした。
今思うと・・・一人の小さな女の子にあげた青いイルカの置物が、その化身としてアルパに姿を変えて私の前に再度現れてくれたような気がしている。そして12年の歳月を経て、今度はその子に野生のイルカを見せてあげようと思う!置物ではなく・・・生きた「青いイルカ」を・・・

ギリシャのミコノス島の青いイルカの置物・パリのカフェでのイルカへの思い・日本の小学生の女の子・トラック環礁での野生のイルカとの出会い・子どもの父親・そして既に成人した娘・・・すべてが繋がりあっている!
自然に無駄なものがないように、また人の出会いにおいても決して無駄なものはないのではないか?ふと そんな気がしてくる。

今私はイルカに対して無限の可能性というものを感じている!いや・・・人間に!

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